種をとる

トマトはこぼれ種からもよく芽を出す。去年、何かの理由で収穫されずに地面に落ちたトマトから芽を出し、ビニールハウスのすみで、ひとりで勝手にすくすくと育つことがある。 そういうのに限って、ていねいに種まきして温床の中で大事に育てているものより、よほど元気そうなのはどうしてだろうか。かぼちゃもよくこぼれ種から芽を出す。 毎年、堆肥置き場の片すみから芽を出す。これはこぼれ種というか、台所の生ゴミとして捨てた種だ。こちらも放っておけば土手の上で元気いっぱいに勝手に育ち、秋にはちゃんと実をつける。 ただし、この実はおそらくいろいろ交配してしまっていて、どんなものがつくのかわからない。私の父母はこういうかぼちゃも「もったいない」と家に持って帰り、必ず食べる。 食べてみておいしければ、種をとってきれいに洗って乾かし、「おいしいから来年これをまけ」ともってきたりする。
今、種は大手種苗会社から購入するのがあたりまえになっているが、本来、百姓は自分でまく種は自分で取っていたのだろう。現在うちで種とりしているのは、米、麦などの穀物と、大豆、花豆などの豆類だ。 これらは、みんな収穫物そのものが種なので、これを来年そのまままけばよい。種とりは楽だ。一方、野菜の方は少し面倒だ。 種をとるには花を咲かせ、実をつけてもらわなくてはならないが、ナスやトマトなどの「実」を食べる果菜類以外は、花が咲いてしまっては困るのだ。春先、まだ寒いのに、欲張って早く種まきしすぎると、 大根やニンジンなどトウ立ちし、花をつけてしまうことがある。なるべく高く花をつけようというのか、ずいずいと茎を伸ばす。この茎の丈夫さには驚かされる。 葉っぱとはまったく違う材料でできているとしか思えない。根っこもかたくなり、こうなるともう食べることはできない。けれど種をつけ、なるべく多く子孫を残そうとすることは、 植物にとって本当は一番大切なことなのだろう。普段見ているのとはまったく違う姿に変わった野菜を見るとそう思う。種とりって面倒だけど、奥が深くて面白そうなのだ。
野菜の地方品種を集めた本を見ると、大根なら赤いのあり、緑色のあり、葉っぱの形もさまざま、日本一の激辛なんてのもある。 数十キロの大きさになるものもあるし、どれよりかたいのが特長というのもある。本当にその多様性はおどろくばかりだ。 多様であるということは、一方で効率が悪いということでもある。しかし、その地方独特の食べ方、郷土料理とともに、毎年種をとって保存し、大切に育てられてきた野菜はどれも美しく、 そしておいしそうなのだ。

写真:掘りたてのしょうが
しょうがの茎を引っ張れば、簡単にすぽっと抜ける。茎の根元がとてもきれいなピンク色をしている。