米づくりは楽しい。春、田植えをする。はじめはゆっくりと、毎日少しずつ大きくなる。分けつし、次第に葉っぱが増える。そよそよと風になびき、梅雨時の雨にうたれる。やがて穂が出て一面黄金色になる。そして稲刈り。毎年同じことの繰り返しだが、稲の姿は不思議と見飽きない。どうしてだろう。そして目をこらせば、田んぼには様々な小さな生命がいっぱいだ。トンボ、カエル、チョウ、バッタ…ホタルもだいぶ増えてきた。田植え後、しばらくするとミジンコが大発生するのだが、何でもないミジンコでも、わらわらと水中で動くさまを、ついしゃがみこんでつくづくと見てしまうのはどうしてだろう。
それに何といってもお米は主食だ。秋、一年間食べる米を、土蔵に蓄えるという作業。これはやはり何か充実感がある。お米代なんてお金にすれば残念ながら大したことはないのだが、現物はずっしりと重いせいだろうか。「米と味噌さえあれば、生きてゆける」と本気で思う。
しかし、米作りは難しい。実は毎年なかなかうまくいかない。草は生えるわ、稲のできは悪いわとなると、もうがっかりだ。何せ米作りは一年に一回だ。だめならまた来年がんばるしかない。来年はこりずにもう少し田んぼを増やそうと思っている。どういうふうにしたらうまくゆくだろうか、とあれこれ考えるのもまあ、楽しいといえば楽しい。
近所にも自給的に米を作っている人がまだかなりいる。高齢の方が多い。口ではもうからないとか、大変だとか言っている。楽しいなんて決しておっしゃらない。確かに米作りといえば、昔から八十八の手間のかかる大変な労働ということになっている。けれどみんな本当にお元気で、足しげく田んぼに通っている様子を見ていると、やっぱりどうも楽しそうなのだ。
写真:たくあんの大根を干す
この時期、でーこを漬け込むのもすっかりわが家の恒例行事になった。あーもういよいよ冬が近い。八ヶ岳も白くなった。
トマトはこぼれ種からもよく芽を出す。去年、何かの理由で収穫されずに地面に落ちたトマトから芽を出し、ビニールハウスのすみで、ひとりで勝手にすくすくと育つことがある。 そういうのに限って、ていねいに種まきして温床の中で大事に育てているものより、よほど元気そうなのはどうしてだろうか。かぼちゃもよくこぼれ種から芽を出す。 毎年、堆肥置き場の片すみから芽を出す。これはこぼれ種というか、台所の生ゴミとして捨てた種だ。こちらも放っておけば土手の上で元気いっぱいに勝手に育ち、秋にはちゃんと実をつける。 ただし、この実はおそらくいろいろ交配してしまっていて、どんなものがつくのかわからない。私の父母はこういうかぼちゃも「もったいない」と家に持って帰り、必ず食べる。 食べてみておいしければ、種をとってきれいに洗って乾かし、「おいしいから来年これをまけ」ともってきたりする。